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2024年8月19日(月)   日光街道 宇都宮宿 大谷石資料館 
 今年は立秋を過ぎても昨年を上回る猛暑の夏が続いており、そのうえ8月8日の日向灘での地震発生により国から「南海トラフ巨大地震注意」が発令、続いて台風7号の通過に伴い関東、東北地方に強風・大雨をもたらし、不安で落ち着かない世情となっている。
 そんななか台風一過、猛暑も一休みとなった19日、涼をとるには最高の場所と日光街道歩きのときから訪ねてみたいと考えていた宇都宮の大谷資料館を訪ねる。大谷資料館は宇都宮宿で奥州街道と分岐した日光街道の西側に建っていて、JRと路線バスを乗り継いで約3時間半かかり到着する。
 資料館入口バス停で降りて資料館の駐車場に出ると、大谷景観公園の屏風のようにそそり立つ奇岩、大谷資料館の駐車場を取り囲む露頭の岩壁が出迎えてくれる。大谷資料館のアプローチの緩い上り坂を進むと、どこからともなく涼気に全身が包まれ、瞬時に猛暑を忘れさせてくれる。月曜日とはいえ多くの観光客とともに大谷資料館入口から坑内に向かう一方通行の階段を降りていくと、高さが20メートル以上ある大空間、気温は10数度の異次元世界に入っていく。 

大谷景観公園の奇岩

駐車場前の奇岩

大谷資料館 地下坑内入口

大谷石の切り場坑内

ギリシャの神殿を連想させる空間

手掘りによる風紋状の痕が美しい
 
 大谷資料館はいろいろなイベント、映画撮影、コンサート等に利用され、この地下空洞で2019年に開催された華道家假屋崎省吾氏の世界展に提示された作品が飾られている。直観的にどこかで見たことのある作品だと思い浮かび、日光街道の終着地日光東照宮に飾られていた作品と類似であることに気付く。最近流行りの新郎新婦の写真撮りの場所としても活用されているようで、この日も一組の新しいペアが手を取り合ってボースを決めている。

假屋崎省吾氏の作品 日光東照宮の作品と比べて観て芸術家の発想の基軸は不変なのだと思う

日光東照宮 假屋崎省吾氏の作品
写真撮りの準備をする新郎新婦
 
 
 
 地下空間の壁に残る、江戸時代中期から続く手掘りの痕と昭和30年代に導入された機械掘りの痕は著しく違って見える。手掘り痕は風紋のような柔らかさと暖かさを感じる和風、機械掘り痕は直線的で強靭なギリシャ風の印象を受ける。
 大谷石の地層は、きれいな石の層と「ミソ」と呼ばられる茶色の塊を含む層の互層で形成されていて、掘削場ではミソの層を残してきれいな層から大谷石を採掘する工法がとられているという。確かに、空間の天井を眺めると、薄暗くはあるが、表面は茶色をしており、上部がミソの層でるあことがわかる。
 地下の採掘場であるが、地上に直接つながるスロープが設けられ、写真撮影の新郎新婦はそのスロープを自動車に乗って撮影場所までやって来た。また、足腰の悪いお年寄りもこのスロープで地下空間に案内してもらえるようである。スロープが地上に出るところ陽が射しこみ、地下の冷気と地上の暖気が混合して、いわゆる結露して霧状に、そして幻想的に白く煙っている。先ほど、資料館までの道で感じた冷気はその霧が地上に漏れ出したものであることがかわった。
 この広大な採石場は江戸時代から二百数十年綿々と続けられてきた、主として人力による先人が残した遺跡であり、汗の結晶といえる。しかし、整然と整備された空間の様子からは掘削と採石に流されてきた汗、労苦、悲しみと喜びを感じることは難しい程に、静かで厳かな無機質な迫力が伝わってくる。 

手掘り痕 

機械掘り痕

手掘り痕(左)と機械掘り痕(右)


ミソ

 地下空間 天井部分が赤茶色に見える

地下空間
 

地下空間 地上につながるスロープ
 

 
 異空間の地下採掘場を約1時間かかけて見物すると、湿度は高いものの体は適度に冷やされ、地上に戻ってもしばらくは暑さから守ってくれる。資料館の展示スペースには、大谷石の切り出しに用いられたつるはし、のみ等の道具類、石を背負った背負い籠、法被(はっぴ)等と共に、大谷石を利用して作った火鉢、七輪、麦の脱穀機、五右衛門風呂のような浴槽等が提示されている。建築用の大谷石は大きさの規格が決められ、五六、四十などの呼び名で十種類に分類されている。最初の数字が厚さ(寸)、次が幅(寸)を示し、五六というのは厚さ5寸(15センチ)(16センチ)の石材を表している。長さはすべて3尺(90センチ)と決まっている。
 

大谷石製火鉢

大谷石製浴槽

大谷石製麦の脱穀機、七輪

建築用石材
 
 バス停でひとつ宇都宮駅寄りのバス停近くに建つ大谷寺に向かう。さすがに体に溜まっていた冷気も使い果たし、汗を拭き拭き歩いて行くと、道端には今間は住人がいない総大谷石造りの建物が建っている。続いて、大谷石製の鳥居が特に目を引く小さな社が建っているが、これも大谷石で造られていてまさに土地柄を象徴している造形物といえる。
 弘仁年間(810年~)に弘法大師によって彫られたと伝わる千手観音を本尊とする大谷寺にやってくると、お堂は岩肌を露わにした大谷石の岩窟に飲み込まれたように建っている。山門に登る石段ももちろん大谷石製である。
 お堂に入ると、高さ4メートルの千手観音は現在は剥げ落ちてしまったが、出来た当時は表面に金箔が貼られ黄金色に輝いていたといわれている。更に、最新の研究によりバーミヤン石仏との共通点が見つかり、アフガニスタンの僧侶が彫刻したのではないかとの説もあるようである。こうなると、ペルシャに繋がるシルクロード交易の終着地となる奈良時代、平安時代の日本の姿が思い浮かんできて、古代史へのロマンが目の前に広がってくる。
 本堂の隣に建つ脇堂には、東の摩崖仏と称される薬師三蔵・釈迦三蔵・阿弥陀三蔵が並んで彫られ、祀られている。千手観音を含めてこれらの石仏はすべて国の重要文化財に指定されている。
 この地で産出する大谷石の商業ベースでの流通は江戸時代中期からのようであるが、大谷石の活用は千手観音の摩崖仏を彫刻した平安時代に行われていたわけであるから、千数百年も歴史を重ねてきたといえる。
 
  

総大谷石造りの建物

鳥居、玉垣、祠すべてが大谷石でできている

大谷寺 山門に登る階段も大谷石製

 大谷観音堂 お堂の奥部分は岩窟の中に建てられている

大谷寺本尊の千手観音

右から 脇堂の薬師三尊、釈迦三蔵、阿弥陀三蔵(大谷寺パンフレットより転写)



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